- ブログネタ:
- 高校野球のことなら何でも に参加中!
甲子園は、高校野球をやっていた私にとっては逆に「雲の上」の存在で、まったく縁がありませんでしたが、違う意味では今でもよくおぼえている思い出があります。特に印象に残っているのは表題の「第58回全国高校野球選手権大会」(1976年)の予選と本大会です。
まず甲子園と私のかかわりですが・・、
私が小学生のころに独身のころは父の実家に住んでいたひじょうに親しい叔母がいました。彼女は結婚した時に甲子園でマンションの部屋を借りて新居にしました。そのせいもあって私は頻繁に甲子園のマンションに遊びに行くようになり、現地で友達ができるくらいでした。そしてマンションの近くにあった甲子園の浜や、駅前の阪神パーク(遊園地)などは頻繁に遊びに行っていました。そのマンションには阪神の選手も住んでいて、当時はスーパースターだった「江夏、田淵、藤田平」の寄せ書きのサインボールをもらったこともありました。(今はどこにいったのか・・・残念です)
また叔母さんの話以外にも、父の豊中の実家からも甲子園球場の高校野球もたまに観に行きました。
ただ私はプロ野球は父の実家が沿線だったので阪急ファンでした。家族や親戚のほとんどは「大阪人=阪神ファン」の大原則に反して、阪神はおろか野球にさえ興味がなく、甲子園でプロ野球の試合はほとんど観たことがありませんでした。唯一甲子園でプロ野球を観たのは、関東から来た知り合いの案内をするために行った阪神の2軍戦以外は観たことはありませんでした。
前置きが長くなりましたが、表題の「第58回全国高校野球選手権大会」の話になります。
私は自分でも小学生の時から上手くはありませんでしたが、少年野球をやっていました。子供のころはあまり面白いと感じなかった高校野球も少しわかるようになってきたのか、だんだん面白くなってきました。ということで甲子園の予選も観たいと思うようになりました。
そして中学2年の時に第58回全国高校野球選手権大会・予選の西東京大会を観にいきました。
そして中学2年の時に第58回全国高校野球選手権大会・予選の西東京大会を観にいきました。
当時はまだ昭島球場で試合をしていて、最初に行った時に観たのは3回戦の国立ー駒大高戦や国学院久我山ー錦城戦などでした。予選も結構面白く、楽しんで観戦しました。
そして決勝の桜美林ー日大二高戦も観にいきました。桜美林はその年の春の関東大会で優勝しましたが、抜けた強さではなく、この試合も3-0でリードされた試合を終盤に大逆転して甲子園出場を決めました。
そして決勝の桜美林ー日大二高戦も観にいきました。桜美林はその年の春の関東大会で優勝しましたが、抜けた強さではなく、この試合も3-0でリードされた試合を終盤に大逆転して甲子園出場を決めました。
そしてその年の8月に、たまたま金沢で鉄工所をやっっている「おっちゃん」(祖母の弟)が大阪にやってきて、「保と一緒に甲子園に行こうと思ってきたんや」と言っていました。その年に北陸代表として石川県から甲子園に出場していた星稜高校を応援したいということでした。
そして試合の日に一緒に甲子園に行くと、「おっちゃん」は現地でうまいこと星稜の応援団と交渉をしてもぐりこみ、チケットを手にいれました。
しかも2人はちゃっかりと好カードといわれていた第1試合の長崎海星ー崇徳高校の試合から入場してアルプススタンドに陣取りました。
海星の酒井投手はネス湖の「ネッシー」をもじった「サッシ―」といわれているくらいこの大会では目玉になっていた怪物級の速球派でした。その後彼は卒業後にヤクルトにプロ入りしました。また崇徳高校は春の選抜の優勝校でした。こちらも好投手の黒田で、地味でしたがじかに観ると球も速くてとてもいい投手でした。結果は息詰まるような投手戦のすえ、1-0で海星が勝ちました。
そして本番の星稜ー天理の試合になりました。
当時はまだ星稜は野球後進県といわれていた石川県の中でもたまに甲子園に出るくらいのチームで、当時となりの富山県と合せて1校出場できる北陸代表という設定でした。例年というかほぼ毎年どちらかというと富山県のチームの方が優勢でした。
そして相手は天理高校という当時から全国的に有名になっていた強豪校で、好投手福家に加え、のちに巨人で大活躍した鈴木康友選手もいて、個人的にはまず難しいだろう・・、と思っていました。
でも何せ周りは星稜の応援団で、「おっちゃん」を含め金沢の人が大量にいたので黙っていました。
ところがです。なんと後にプロ野球で速球王としてならした小松投手(元中日のエース級)の好投もあり、星稜が勝利しました。これでベスト8です。信じられないと思いました。石川県の高校が天理に勝っての話です。
あとで雑誌※を見たら、たしか雑誌によるとエースの小松投手は能登の富来(現志賀町)の出身とかで、小学5年生のときにすでにソフトボールで79メートルを投げていたような鉄砲肩だったようです。
※「ゴング」臨時増刊より
その後は日本を代表するピッチャーになったのもうなずけます。
※「ゴング」臨時増刊より
その後は日本を代表するピッチャーになったのもうなずけます。
またこの快進撃から星稜は段々と全国的に強豪校の仲間入りをしていきます。この10数年後にあの有名な松井選手が活躍します。
そして準々決勝の相手は沖縄の豊見城高校です。豊見城はこちらも後に巨人入りした好投手・赤嶺を擁していました。沖縄の高校は以前は昭和43年の記念大会で快進撃をしてベスト4になった興南高校以外は、石川県と同じように参加して終わりみたいなところでした。ところがこの豊見城が大きく流れを変えました。この年も選抜で準優勝した小山高校に勝ってベスト8になりました。そしてこの年から3年連続で甲子園でベスト8に進出しました。
その原動力となったのが、名将として名高いあの栽監督です。栽監督はその後も沖縄水産や沖縄尚学を率いてたびたび甲子園を沸かせました。さらに当時はまだ判官贔屓的な空気もあり、勢いに乗っている豊見城のほうが明らかに優位に立っているように感じました。
しかし「まさかここまでだろう」と思っていた私はまたもやびっくりすることになります。
「おっちゃん」は金沢に帰るどころか、大阪にも帰らず、近くの彼の親戚の家に泊まり込んでまた観に行こうと言いました。ということで私も一緒にそこに泊まり込んで行くことになりました。
ちょうど前述の前述の叔母の他にも、甲子園に住んでいる親戚がいたのです。
そして先程少し書きましたが、試合で大きく驚きました。
なんとあの好投手の小松が打撃でも赤嶺投手から本塁打を打ったのです。
その虎の子の1点を小松が守り切って、星稜が勝ってしまいました。
こんなことってあるんだろうか?
その時は本当にそう思いました。
そして西東京大会で応援していた初出場の桜美林も地味に勝ち上がっていて、準決勝で星稜と対戦することになりました。
これは困った、と思いましたが、「おっちゃん」は「ほんならお前は桜美林を応援せいや、わしは星稜を応援するさけ」と言いましたが、観戦するのは星稜のアルプスです。
でも心の中で桜美林を少しだけ応援していました。
試合は結局桜美林がやはり東京のチームとは思えないような泥臭い野球で押し切り、星稜は敗れました。
さらに桜美林は決勝でやはり持ち前の粘り強い、泥臭い野球で、あのPL学園(当時はそこまで強くはありませんでしたが・・)に延長戦で競り勝って、何と初優勝してしまいました。サヨナラヒットを打った菊池太陽選手は途中出場の控えの選手でした。また松本ー渋谷のバッテリーの活躍も光り、特に渋谷は重要な場面で本塁打など、好打も光りました。
私にとってはこれも大きな驚きでした。
というのも、この年の甲子園は当時アイドル的な人気があった巨人の原監督(東海大相模)、おでこにフライの打球を当てて話題になった本塁打王の宇野選手(銚子商ー中日)、一時は無敵の強さを誇っていた西武の上位打線の一角だった立花(柳川商ー西武)などもいて、大変なメンバーがそろった大会でした。
第58回の甲子園大会は私にとっては強烈に記憶に残っている大会です。
私は中学でも野球部に入っていましたが、そんなに厳しい部ではありませんでした。
しかしその後は自分が進学したのは東京都立高校でしたが、野球部に入ってしまいました。高校の硬式野球部なので、当然ひまがなくなりました。ただ当時は一種の特権だった選手証で夏の大会後の2~3日間は休みだったので、予選を観ることは1~2度ありました。でもその後は夏休みはほとんど一日中練習か練習試合なので腰を入れて高校野球観戦することもなくなりました。
「おっちゃん」はその後私が高校生や大学生の時に、昔の軍隊時代の集まりなどで東京に来るたびに一緒に東京見物をするかたわら、後楽園にプロ野球を観にいきました。
そんな「おっちゃん」も2009年に逝去されてしまいました。